時間制限の回
高校教師として働いていると、3年という区切りを嫌でも意識してしまうようになります。
今目の前にいる生徒が、卒業の時にどのような姿になっているかと。
先生方は「卒業するまでにこうなってほしい」というビジョンを持って、熱心に指導していると思います。それはもう、本当に。
しかし、僕はこの「3年間でこうしたい」というビジョンのようなものにずっと疑問を抱いています。だって、人間は高校生の16~18歳の間に完成するものでは到底ないからです。
例えば性格に難のある生徒がいたとして、その性格を良い方向に持っていくのに、高校での3年間が妥当な期間かというと、決してそんなことはありません。
自分の無力さや情けなさに打ちひしがれながら、それでも必死に自分を保とうとして、無駄に周囲に対して攻撃的になったり、必要以上に自分を卑下してアピールじみたことをしてみたり、非効率な言動を見せたり。
それが高校生活の中で解消できればいいですが、はっきり言って高校生活の中にそれらの解決の機会は多くありません。なぜなら、自分の無力さや情けなさを認められるようになったり、克服できたりするようになるには、自分の力で社会生活を送っているという実績が必要だからです。
高校ではその実績を積むことがほとんどできません。そのかわりに、テストや部活、先生からの大人の対応など、ひたすら自分の無力さやショボさを再認識する機会は大量にあるわけです。だから根本的な解決はかなり難しいものになります。
しかし、先生方は「3年間で何とかしなきゃ」という思いに駆られて、長い年月をかけた根本的な解決よりも、即効性のあるパワープレイに走ってしまう場合があります。
課題や補習などのペナルティを課したり、個別指導で論破したり、場合によっては停学や退学をちらつかせたり、とにかく色んなな方法で「すぐにこのダメな部分を治してやろう」としてしまいます。
それで上手くいくならいいのですが、逆にことを拗らせてしまう場合もあります。というか、大人の目線と勢いで矯正するやり方は、その生徒の人間性に関する根本的な解決につながっていないため、いずれにしろイマイチな方法だと思います。
完全に自論ですが、3年間でなんとかしようとしないことが大事なのではないでしょうか。卒業まで放置すればいいと言っているのではありません。あくまでも「生きていく中できっと良い方向に変化していくだろう」と信じて関わるということです。
先生がどれだけの想いを持って生徒に語りかけても、それが素直に受け取ってもらえるかどうかなんてわかりません。場合によっては「俺はこんなにコイツのことを思って一生懸命やってるのに、何でわからないんだ!」と怒りが湧いてきたり、「まともに話を受け止めてくれないんだからもういいや」と見捨ててしまったりする可能性があります。
そうなるともう目的が「自分の話に黙って従わせる・自分を守る」になってしまいますから、完全にダメダメですね。
「3年後どうなっているか」ではなく「長い人生の中で必ず起こるであろう、良い方向への転換点を信じる」スタンスでいくのが、お互いにとっていい距離感を保つ秘訣のような気がします。
ややこしい生徒だからって「こいつは頭がおかしいから」「どうせ何も考えてないんだろ」「親が甘いからこうなったんだ」などと言ってないで、「必ず社会で必要とされる日が来る」「その時が来るのを一緒にじっくり待とうか」という感じの関わり方でいきたいものです。
パワープレイで全てが解決するわけではありませんので。抑圧や制限の効果は薄いものですよ。ホントにね。
今日のひとこと
子どもの頃の自分にそっくりな生徒を見ると、恥ずかしくて悶えてしまうわ。